ベルリンの壁
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家の近所散歩するのも飽きたので、最近は自転車でいろんな場所を巡ってる僕です。

 

約半年前の11月末にベルリンに到着してから、長い長い冬でロクに観光してなかったですが、5月入ってようやく外出したい天気が増えてきました。ベルリンの冬は本当に寒い。そして全然晴れない。

 

今回ご紹介する【ベルリンの壁】は、到着してわりとすぐに1回見に行ったんです。でもその時は寒すぎてすぐに帰宅しました。

 

ベルリンの壁は結構長いので、がっつり写真撮って壁満喫したいと思ってる人は冬は避けた方が良いと思います。

 

この記事では、ドイツ語はまったく学ぶ気ないけど、ドイツの文化や歴史には興味がある僕が、「ベルリンの壁とは一体なんなのか?」について簡単に解説します。

ベルリンの壁観光の記録

 

ほかにもたくさんあるので、よろしければ以下ご覧ください。

ベルリンの壁について解説

ベルリンの壁の概要

ベルリンの壁は、1961年8月~1989年11月9日までベルリン市内に存在したベルリンを東西に分断した壁です。全長約155キロ。現在も壁の一部は残っていて、人気の観光スポットとなっています。

ベルリンの壁

 

ちなみに場所は、【イーストサイドギャラリー】というところ。

ベルリンの壁は何のために建てられたの?

ベルリンの壁建設の目的は、「市民の亡命防止のため」です。

 

ドイツは第二次世界大戦で敗戦し降伏します。そしてアメリカ・フランス・イギリス・ソ連の4カ国に分割占領されます。その後アメリカ・フランス・イギリスの3か国とソ連が対立。

TERUO MATSUBARA

↑の通り、ドイツを東西に分けて、さらにベルリンも東西に分けています。アメリカ・フランス・イギリスの3か国で西側。ソ連が東側。

 

西ベルリンは経済成長著しく、旅行も自由でナイトクラブもあり、高級車も多数走る生活のしやすい環境。一方東ベルリンは、ソ連に持ってかれるばかりで食料は配給制度が残る貧しい環境。

 

東ベルリンの住民は華やかな西ベルリンでの生活に憧れて、亡命者が後を絶たない状況に。亡命者数は1945年~1961年の間で約350万人。(東ドイツ人口の約20%)

 

ソ連はせっかく勝利して手に入れた土地からどんどん人が出ていくのが嫌です。特に25歳以下の若い層や医者や技術者などの頭脳流出が目立っていたため、東ドイツは危機的状況。

 

1961年時点で東ドイツの人口は約1,700万人に対し、西ドイツは約6,000万人。

 

西ベルリンを一周壁で囲んでしまって、亡命できないようにしてしまおう」とベルリンの壁が建設されました。

ベルリンの壁建設計画

ベルリンの壁の建設は1961年8月13日の午前0時スタート。人員は民間の工場で働く市民含む4万人。

 

バレないようにたった一晩で建設する超トップシークレットの計画だったようです。当然市民は建設情報を事前に知らないので、叩き起こされて参加。

 

朝6時までの6時間で壁を完成させたようです。壁と言っても、この時はコンクリートの壁ではなく有刺鉄線のバリケードのようなもの。

 

壁建設の知らせを聞いた当時アメリカ大統領のジョン・F・ケネディは、特に何もせず。この時の対応次第では、第三次世界大戦になった可能性もあったとか。

ベルリンの壁ができた後の生活の変化

銃を持った東ドイツ兵が壁の周りを常に警備。亡命しようとする人へは容赦なく発砲・射殺が許可されており、亡命を試みた588名が射殺されました。

 

基本的に東西の行き来は禁止ですが、葬式など理由によっては通行が許可されたよう。突然家族や友人・恋人と会えなくなってしまった人はごまんといます。

 

東側の人々にとっては「国家という名の牢獄」と言われた社会主義生活です。

 

そんな中、勝手に壁を建設した東側は65歳を超えたら西側に行っても良い(年金を支払う必要がなくなるため)、アル中と精神疾患者は西側に行っても良いとしていたという話もあるようです。

ベルリンの壁崩壊

エーリッヒ・ホーネッカー(この人がベルリンの壁建設の責任者)という、東ドイツの社会主義推進者であり最高指導者が失脚。

 

1989年11月9日、ベルリンの壁は突如崩壊の時を迎えます。この崩壊は計画されたものではなく、突発的な出来事だったとして有名です。

 

新政権では「これからは東ドイツ国民は特別な理由・許可なく出国OKです」としたが、いつから有効な話か知らなかった広報担当者が「私の認識では、ただちに。遅滞なく。」と発言したことが報道され、報道を観た国民が国境検問所に殺到し、みんなで壊して崩壊に至ったわけです。

 

翌年1990年10月3日に東西ドイツは統一されて現在に至ります。

 

ベルリンの壁崩壊は、1985年にソ連の書記長がゴルバチョフに就任してから起こった東ヨーロッパの変化が大きく関わってるようです。

 

鉄のカーテンと呼ばれた東西ヨーロッパ間にあった有刺鉄線を「別に壊しても良い。各国もっと自国の責任で自由にやりなさい」としたところ、ベルリンの壁崩壊の数カ月前にハンガリーがオーストリアとの国境にある有刺鉄線を破壊。

 

ヨーロッパ・ピクニック計画で、東ドイツ市民をハンガリーとオーストリア経由で西ドイツへ亡命させる手助けを実行。ベルリンの壁は崩壊前に実質効力を失っていたようです。

 

エーリッヒ・ホーネッカーは、「ベルリンの壁は向こう100年は残り続ける」と発言していたようなので、上に立つ人が違えば未だに壁は健在で、東西ドイツに分かれていたのかもしれません。

おわりに

あまり詳細を語るとWikipediaみたいになってしまうので、かいつまんで簡単に解説しました。

 

登場人物の名前や、どんな会談が行われていたのかといったもっと具体的な内容が知りたい人は、ぜひWikipediaでご確認ください。

 

ほんの一昔前までは負の象徴で見たくもない存在だったベルリンの壁が、今は歴史の象徴として見たい存在に変わり、観光客を魅了する存在になっているというのは不思議なものです。

 

「壁をすべて撤去してしまえ!」と思う人も当然いたと思うんです。良い思い出なんかないわけですから。でもすべて撤去はせず、残った壁にイラストを描いて、見世物にする。結果現在までにドイツの観光産業に大きく貢献しているんですよね。

 

ネガティブも考え方や使い方次第でいつかポジティブに変えることができるということでしょうか。歴史を知ると見え方が変わると痛感したベルリンの壁でした。

 

ちなみに僕調べのデータによると、ベルリンの壁ことイーストサイドギャラリーは、世界第32位のレビュー数を誇る観光地です。

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